季節の言葉

四季折々の言葉や行事を綴っていきます

水無月とはいつのこと?意味と行事を解説します

水無月とは6月の異名です。日本では月を1月、2月といった数字で呼ぶだけではなく、季節ごとの特徴に応じた言葉で言い表してきました。たとえば、1月なら睦月、2月なら如月といった具合です。

 

この呼び方を和風月名といい、6月は水無月と呼ばれているのです。

 

ここでは水無月について解説します。

 

水無月の意味

水無月には、水が無い月と水の月という正反対の意味があります。

 

和風月名はもともと旧暦を基準にして使われてきました。旧暦の6月は現在使われている新暦でいえば、6月終わり頃から8月にあたります。その頃は梅雨も終わって暑さが激しくなり、田が干上がってしまうところから、水が無い月という意味があるとされているのです。

 

その一方で水無月の「無」は「~の」を意味するところから、水の月という意味をもつともいわれています。相矛盾する意味をもった言葉が水無月なのです。

 

しかし、新暦の6月といえば梅雨の最中。現在では、水の月という意味のほうが時宜にかなった使い方といえるかもしれません。

 

夏越しの祓と和菓子の水無月との関係

6月の30日には夏越しの祓が全国の神社で行われます。夏越しの祓とは身に付いた穢れを祓うために行なわれる行事のことです。12月31日に行われる年越の大祓と対になっており、半年ごとに身に付いた穢れを祓う行事とされています。

 

夏越しの祓では、厄を祓い、無病息災を願う茅の輪くぐりが有名ですが、この時期に食べられているのが和菓子の水無月です。三角形のういろうの上に小豆をのせた和菓子で主に京都で食べられています。

 

旧暦の6月は新暦では7月から8月頃となり、暑さの激しい季節。平安時代、宮中ではこの時期に氷を食べる行事が行われていました。しかし、当時の庶民にとって氷は手の届かない物。そこで、氷になぞらえた和菓子が食べられるようになったとされています。その和菓子が水無月なのです。ういろうの白さと三角の形が氷を表し、上にのっている小豆には魔を祓う力があるといわれています。

 

夏越しの祓同様、穢れを祓う力が込められた和菓子が水無月なのでしょう。

 

まとめ

水無月とは和風月名のひとつで6月の異名です。1年の折り返し月でもある6月には夏越しの祓が行われ、身に付いた穢れを祓う行事が行われます。その時期に限定して食べられるのが水無月という名の和菓子です。

 

期間限定で食べられる和菓子に水無月と名づけた背景には、季節の変化を楽しんできた人々の思いが込められているのではないでしょうか。

 

皐月とは何月のこと?意味を解説します

皐月(さつき)とは5月の異名です。日本では数字だけではなく、時候の特徴を示す言葉を使って月を表してきました。この言葉を和風月名と呼びます。たとえば、1月を睦月、3月を弥生という言葉で表しているのがそれにあたります。皐月もそのうちのひとつです。

 

皐月には田植えを始める時期という意味があるとされています。また、「皐」には神へ捧げる稲の意味があるといわれています。田植えを始めるにあたってその年の豊作を神に願う、といった意味が皐月には込められているといえるでしょう。

 

さて、冒頭で皐月を5月の異名と書きましたが、これは新暦5月のことです。しかし、本来、皐月が表しているのは、旧暦5月のこととなります。

 

月の動きを基準として、それに太陽の動きを加えた太陰太陽暦によっている旧暦と太陽の動きに基づいた太陽暦によっている新暦とでは年月の数え方が異なります。具体的には、旧暦のほうが新暦よりも約1ヶ月遅くなるのです。

 

そのため、旧暦5月は新暦6月にあたることになります。新暦6月は梅雨に入り、田植えが始まる季節。本来の皐月の意味に合致した月です。それならば、新暦6月を皐月と呼ぶほうがよいのではないか、と思うのですが、そのような扱いにはなっていません。

 

これは、明治政府によって暦の扱いがそれまでの旧暦から新暦に変えられたときに、和風月名についてはそのまま使われ続けたことが原因とされています。日数の数え方が変わることで生じる季節感のずれをそのままに、1月は睦月、2月は如月、と機械的にあてはめて足れりとしたため、このようなことが起きているのでしょう。

 

ちなみに新暦6月は和風月名では水無月(みなづき)と呼ばれています。

 

 

春爛漫とは

春爛漫とは、春になって花が咲き乱れ、あたりが明るくなる様子をいいます。爛漫だけでも同じ意味をもつのですが、そこに春という言葉が加わることによって、さらに華やかさが増す、といったところでしょうか。

 

春爛漫のうち、爛という文字には、色彩鮮やか、明るい、光る、といった意味があります。しかし、そのほかに腐るという意味ももっています。爛熟という言葉があるように、ものごとが発達しすぎてかえって弊害がおきてくる時期を指すときに使われます。果物が熟しすぎて腐り始めるとき、といえばわかりやすいかもしれません。

 

春爛漫と聞けば、春もたけなわ、霞がたなびくなかに桜が咲き誇っているイメージが目に浮かびます。花びらが一面に散り敷かれた桜の樹の下では多くの人々が花見に興じている。考えるだけで浮き浮きした気分になります。

 

しかし、その頃になると、すでに地面に落ちた花びらの一部は腐り始めているかもしれません。爛熟した春の終わりのときが迫っているのです。そのように考えると春爛漫という言葉からは、華やいだイメージだけではなく、季節が終わってしまう一抹の寂しさをも感じます。

 

この感覚はほかの季節からは感じられません。果物が熟し腐っていくイメージは春という季節だからこそのもので、夏や秋、冬といった季節にはあてはまらないでしょう。

 

冴え返る

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冴え返るとは、春になって暖かい日が続いた後に真冬の寒さが戻ってくることをいいます。俳句の季語の一つであり、暖かくなったり寒くなったりを繰り返す春の特徴を表した言葉として知られています。

 

ちなみに、冴え返るは、冴えると返るという二つの言葉が一つになったものです。

 

このうち「冴える」の意味として、私がもっている国語辞典には次のように書かれています。

 

① 強い寒さのために神経が張り詰める感じ

② 光、音、色などがはっきりしたものとして感じられる

③ 目や頭などの働きがはっきりする

④ 元気で生き生きする

 

また、歳時記には、春の暖かさになれた頃にやってくる寒さのため、心身ともに真冬の澄み渡った感覚が再び呼び覚まされる、とあります。

 

暖かな春の陽気に包まれて幾分か気持の緩んだときに、急に寒くなることで、再び真冬の張り詰めた感覚が呼び戻され、ものごとがはっきりとするという意味をもつ言葉が「冴え返る」なのです。

 

なお、冴え返るは、余寒と同じ意味で使われていたこともあったようです。余寒とは立春を過ぎてからもなお寒さが残っていることをいいます。しかし、冴え返るは、暖かな日のなかで感じる急な寒さのことです。また、寒さによって呼び覚まされた緊張感からものごとが明瞭になるという意味ももっています。寒さだけではない点、余寒とは違った意味合いをもった言葉といえるでしょう。

 

個人的には冴え返るという言葉からは、冬の初めに感じる心身ともに引き締まった感じと同じものを連想させます。これから寒くなっていくことに対する心構えといったものが再び戻ってくる感じがしてうれしくなります。

 

私は、冬の初めに万象が寒さによって日々引き締まっていく感覚が好きなので、冴え返るという言葉にも同じ意味を感じて親しみをもっているのです。

 

ただし、それは言葉のうえだけのことで、現実に冴え返るという事象が起きるとやりきれなくなります。寒いよりも暖かいほうがいいからです。

 

 

 

重陽の節句について 意味と由来を解説

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五節句の1つである重陽節句は、上巳の節句(ひな祭り)や端午の節句のように私たちの生活になじみのある行事ではありません。

 

しかし、その由来を調べてみると、五節句のなかでも特に重要とされた行事であることがわかります。また、重陽節句では霊力があるとされる菊の花を使った料理が供され、人々の健康長寿が願われてきました。

 

ここでは、そんな重陽節句の意味と由来について解説します。

 

重陽節句の意味と由来

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重陽節句とは、邪気を祓い健康長寿を願う日のことです。陰陽五行説でいうところの運気の良い陽の奇数で、しかももっとも大きな9が重なる日として特に重要な日とされてきました。また、菊の花が咲く頃に行われる行事であるところから菊の節句とも呼ばれています。

 

重陽節句の基になる陰陽五行説では、人間を取りまく万象を陰と陽に分け、それぞれが互いに影響しあっていると考えています。たとえば、陰をマイナス、陽をプラスといった具合です。そのうえで陰を偶数に、陽を奇数にあてはめて、偶数日を運気の悪い日、奇数日を運気の良い日としたのです。

 

しかし、運気が良いとされる奇数でも、それが重なると逆に運気が悪くなるとも考えられています。そのため、奇数が重なる日、たとえば、3月3日や5月5日などには邪気を祓い、福を招くため、神に供物を捧げて祀ることをしました。この儀式が節句の始まりです。なかでも、重陽節句とされる9月9日は奇数のなかでもっとも大きな数が重なる日のため、特に重要な意味をもつとされたのです。

 

なお、ここでいうところの9月9日は旧暦によるものです。旧暦9月9日は新暦では10月の初めにあたり、菊の花が咲き香る季節です。古来、菊の花には不老長寿の霊力があるとされてきました。健康長寿を願う重陽節句で菊の花が使われるのもこの理由からです。

 

しかし、明治になって新暦が使われるようになってからは、新暦上の9月9日と菊の花の咲く時期とにずれが生じ、その結果として現在では重陽節句はほとんど行われないようになりました。本来、五節句のなかでもっとも重要な日とされてきた重陽節句がほとんど顧みられることがなくなった理由はこの点にあるといわれています。

 

重陽節句の行事

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重陽節句では菊の花が使われます。古来、菊の花には邪気を祓う霊力があるとされてきました。また、菊の花にはビタミンCやビタミンEといった栄養成分の他にグルタチオンと呼ばれる解毒作用をもった物質が含まれるといわれています。ひと言でいえば、健康によく運気を上げる植物なのです。健康長寿を願う重陽節句で使われてきたことに先人の知恵を感じます。

 

菊酒

菊を使った代表的なものが菊酒です。酒を注いだ杯に菊の花を浮かべたものが有名ですが、酒に菊の花を一晩漬け込んでおくと菊の香りが酒に移り、より味わい深いものとなります。

 

菊枕

菊の花を乾燥させ、枕のなかに詰めたものを菊枕と呼びます。重陽節句に菊枕を使って眠ることで邪気を祓うことを願ったのです。

 

栗ご飯

重陽節句は秋の収穫期にあたっており、行事食として栗ご飯も供されてきました。栗は栄養価が高いだけではなく、庶民にも手の届く食べ物でした。重陽節句自体はもともと貴族社会で行われていたのですが、時代とともに庶民も祝うようになりました。そのときに供されたのが栗ご飯だったといわれています。

 

七夕の節句 意味と由来を解説します

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笹の葉に様々な願いを書いた短冊を飾る七夕祭りは、毎年7月7日に行われる年中行事として私たちの生活に根付いています。七夕祭りの由来についても織姫と彦星の伝説が有名です。

 

しかし、七夕祭りは七夕の節句といって五節句の1つでもあります。五節句は穢れを祓うために神に供物を捧げる儀式をさすので、七夕祭りも、もとをたどれば星に願いをかけるだけの行事ではなかったのです。

 

ここでは、そんな七夕の節句について意味と由来を解説します。

 

七夕の節句の意味と由来

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七夕の節句とは五節句の1つで、もともとは身に付いた穢れを祓うために神に供物を捧げる儀式を行う日のことでした。棚機女(たなばたつめ)と呼ばれる巫女が7月6日から7日にかけて機屋にこもり、織物を織って、それを神に捧げたとされています。このことが地域の災厄を祓い、幸福を招くとされてきたのです。これが七夕の節句のもとの形といってよいかもしれません。

 

これに中国から伝わった織姫と彦星の伝説と乞巧奠(きこうでん)と呼ばれる機織りや裁縫が上手になるように願う儀式とが結びついて現在の七夕の節句となったといわれているのです。

 

織姫と彦星の伝説は、天帝の怒りにふれて年に一度の7月7日の日にだけ逢瀬を許された夫婦の物語として有名です。雨が降ると2人が会えないとされているので、この日は晴れるように祈った経験のある方はいるかもしれません。ちなみに、雨が降ると織姫と彦星は会うことができない、というのは一律に決まっていることではありません。雨の降る、降らないに関係なく2人は会えるとしているところもあるからです。

 

また、願い事を短冊に書いて笹の葉に飾ることで願いがかなうようにと祈るのは、乞巧奠(きこうでん)の行事からきたものです。現在の七夕行事はこの2つから成り立っているといえるでしょう。

 

これに対して、棚機女(たなばたつめ)の伝承は現在の七夕行事には直接関係がないようです。神に供物を捧げて穢れを祓うといった行事の側面が薄らいでいることがその原因といえるかもしれません

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しかし、七夕の節句が終わった後に、願いを書いた短冊が飾られた笹をそのままゴミとして処分するのは気が引けるという方はいることでしょう。七夕飾りに使った笹に、何かしらの禁忌を感じることはあると思います。そのため、短冊を飾った笹を燃やすお焚き上げを行っている神社がいくつかあります。

 

七夕祭りの節句としての本来の意義は、このようなところに残っているといえるのかもしれません。

 

端午の節句とは何?意味と由来を解説します

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男の子の健やかな成長を願う端午の節句。毎年5月5日には五月人形を飾り、鯉のぼりをたてて、家族でお祝いをする方も多いことでしょう。

 

けれども、端午の節句の意味はご存知でしょうか。実は、端午の節句はもともと身に付いた穢れを祓うところから始まったとされています。それが、時代とともに男の子の成長を願う行事へと変化していきました。現在では端午の節句は「こどもの日」と定められ、男女を問わずその成長と幸せを願う日となっているのです。

 

ここではそのような端午の節句について、意味と由来を解説します。

 

端午の節句の意味

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端午の節句とは、もともとは身に付いた穢れを祓うために神に供物を捧げる日のことをいいました。端午とは5月に入って最初の5の付く日のことで、5月5日のことをいいます。

 

古代の人々の考え方の中心をなしていた陰陽五行説では、奇数が重なる日を運気が悪くなる日としていました。そのため、それにあたる日には神に供物を捧げて祀ることで穢れを祓うことが行われたのです。

 

端午の節句もその考え方に準じて行われた行事となります。この行事は古代中国から渡来したもので、日本では奈良時代には行われていたといわれています。特に男の子の成長を祝って行われた行事ではなかったのです。

 

ちなみに「節句」の字ももとは「節供」と書き、神への捧げものを意味するものでした。

 

端午の節句の由来と歴史

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端午の節句が男の子の成長を祝う行事へと変わってきたのは鎌倉時代以降とされています。端午の節句では穢れを祓うために菖蒲が使われました。菖蒲の香りが穢れを祓うと考えられていたためです。その「菖蒲」の読み方が「尚武」にかけられて用いられるようになったのが、武家が力をもつようになった鎌倉時代以降とされているのです。

 

5月5日が男の子の成長を祝う端午の節句として社会に定着したのは江戸時代です。徳川幕府が5月5日を重要な行事を行う式日と定めたことで、最初は武家の間に、やがて町人社会へと広まっていきました。五月人形や鯉のぼりが庶民の間に広まったのも江戸時代からとされています。

太平洋戦争終了後の1948年、5月5日は「こどもの日」となり、それまでの男の子中心の行事から女の子も交えた行事へと変わってきました。現在では男の子、女の子を問わず、子どもの健やかな成長と幸せを願う日となっています。

 

まとめ

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端午の節句は穢れを祓い、幸福を願う行事として始まりました。それが男の子のための行事となり、やがて男女に関わりなくすべての子どもの成長を祝う行事となっています。当初、年齢とは関係なかったものが時代の変遷とともに子どものための行事となっていく。この変容はとても興味深いものですが、根底には、いつの時代にも次代を担う子どもたちを大切に育てていこうとする気持ちがあったのだと思います。