季節の言葉

四季折々の言葉や行事を綴っていきます

文学に描かれた季節 春 『草枕』 夏目漱石

草枕』は主人公である画家「余」が「那古井の温泉場」という架空の地で、ヒロイン「那美さん」の肖像を描きあげるまでのあらましを書いた作品です。もっとも、作品の主題は那美さんの肖像を描くことではなく、那古井の温泉場を舞台に、漱石の文明観、美術観を展開するところにあります。

 

そのためか、那美さんの肖像画も現実に描かれるものではなく、主人公の心のうちで絵として形を整えた、というにすぎません。漱石の美術観の延長線上に那美さんの肖像画のイメージを置いたもの、というべきでしょうか。

 

さて、『草枕』は全編、漱石の美術趣味が横溢した作品です。作品の背景となる季節は春、それも仲春から晩春にいたる時期だと思います。

 

私が好きなのが五章の髪結床の場面。髪結床の親方、観海寺の小坊主、そして主人公3人の会話がユーモアに富んでいて、気持ちよく読むことができます。また、髪結床がある海岸の描写がいいですね。

 

「生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。身を斜にしてその下をくぐり抜ける燕の姿が、ひらりと、鏡のうちに落ちていく。」

「砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差として幾尋の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥き微温を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刃を溶かして、気長にのたくらせた様に見えるのが海の色だ。」

(『草枕夏目漱石より引用)

 

この部分を読むと、春風駘蕩たる春の海岸の景色が目の前に浮かんでくるようです。

 

さらに、

 

「青い頭は既に暖簾をくぐって、春風に吹かれている。」

(『草枕夏目漱石より引用)

 

という描写になると、春を通り越して初夏の雰囲気さえ感じさせます。明るい日差しのなかを薫風が吹き渡っていくような爽快な気持ちになるのです。