季節の言葉

四季折々の言葉や行事を綴っていきます

春爛漫とは

春爛漫とは、春になって花が咲き乱れ、あたりが明るくなる様子をいいます。爛漫だけでも同じ意味をもつのですが、そこに春という言葉が加わることによって、さらに華やかさが増す、といったところでしょうか。

 

春爛漫のうち、爛という文字には、色彩鮮やか、明るい、光る、といった意味があります。しかし、そのほかに腐るという意味ももっています。爛熟という言葉があるように、ものごとが発達しすぎてかえって弊害がおきてくる時期を指すときに使われます。果物が熟しすぎて腐り始めるとき、といえばわかりやすいかもしれません。

 

春爛漫と聞けば、春もたけなわ、霞がたなびくなかに桜が咲き誇っているイメージが目に浮かびます。花びらが一面に散り敷かれた桜の樹の下では多くの人々が花見に興じている。考えるだけで浮き浮きした気分になります。

 

しかし、その頃になると、すでに地面に落ちた花びらの一部は腐り始めているかもしれません。爛熟した春の終わりのときが迫っているのです。そのように考えると春爛漫という言葉からは、華やいだイメージだけではなく、季節が終わってしまう一抹の寂しさをも感じます。

 

この感覚はほかの季節からは感じられません。果物が熟し腐っていくイメージは春という季節だからこそのもので、夏や秋、冬といった季節にはあてはまらないでしょう。

 

冴え返る

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冴え返るとは、春になって暖かい日が続いた後に真冬の寒さが戻ってくることをいいます。俳句の季語の一つであり、暖かくなったり寒くなったりを繰り返す春の特徴を表した言葉として知られています。

 

ちなみに、冴え返るは、冴えると返るという二つの言葉が一つになったものです。

 

このうち「冴える」の意味として、私がもっている国語辞典には次のように書かれています。

 

① 強い寒さのために神経が張り詰める感じ

② 光、音、色などがはっきりしたものとして感じられる

③ 目や頭などの働きがはっきりする

④ 元気で生き生きする

 

また、歳時記には、春の暖かさになれた頃にやってくる寒さのため、心身ともに真冬の澄み渡った感覚が再び呼び覚まされる、とあります。

 

暖かな春の陽気に包まれて幾分か気持の緩んだときに、急に寒くなることで、再び真冬の張り詰めた感覚が呼び戻され、ものごとがはっきりとするという意味をもつ言葉が「冴え返る」なのです。

 

なお、冴え返るは、余寒と同じ意味で使われていたこともあったようです。余寒とは立春を過ぎてからもなお寒さが残っていることをいいます。しかし、冴え返るは、暖かな日のなかで感じる急な寒さのことです。また、寒さによって呼び覚まされた緊張感からものごとが明瞭になるという意味ももっています。寒さだけではない点、余寒とは違った意味合いをもった言葉といえるでしょう。

 

個人的には冴え返るという言葉からは、冬の初めに感じる心身ともに引き締まった感じと同じものを連想させます。これから寒くなっていくことに対する心構えといったものが再び戻ってくる感じがしてうれしくなります。

 

私は、冬の初めに万象が寒さによって日々引き締まっていく感覚が好きなので、冴え返るという言葉にも同じ意味を感じて親しみをもっているのです。

 

ただし、それは言葉のうえだけのことで、現実に冴え返るという事象が起きるとやりきれなくなります。寒いよりも暖かいほうがいいからです。

 

 

 

重陽の節句について 意味と由来を解説

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五節句の1つである重陽節句は、上巳の節句(ひな祭り)や端午の節句のように私たちの生活になじみのある行事ではありません。

 

しかし、その由来を調べてみると、五節句のなかでも特に重要とされた行事であることがわかります。また、重陽節句では霊力があるとされる菊の花を使った料理が供され、人々の健康長寿が願われてきました。

 

ここでは、そんな重陽節句の意味と由来について解説します。

 

重陽節句の意味と由来

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重陽節句とは、邪気を祓い健康長寿を願う日のことです。陰陽五行説でいうところの運気の良い陽の奇数で、しかももっとも大きな9が重なる日として特に重要な日とされてきました。また、菊の花が咲く頃に行われる行事であるところから菊の節句とも呼ばれています。

 

重陽節句の基になる陰陽五行説では、人間を取りまく万象を陰と陽に分け、それぞれが互いに影響しあっていると考えています。たとえば、陰をマイナス、陽をプラスといった具合です。そのうえで陰を偶数に、陽を奇数にあてはめて、偶数日を運気の悪い日、奇数日を運気の良い日としたのです。

 

しかし、運気が良いとされる奇数でも、それが重なると逆に運気が悪くなるとも考えられています。そのため、奇数が重なる日、たとえば、3月3日や5月5日などには邪気を祓い、福を招くため、神に供物を捧げて祀ることをしました。この儀式が節句の始まりです。なかでも、重陽節句とされる9月9日は奇数のなかでもっとも大きな数が重なる日のため、特に重要な意味をもつとされたのです。

 

なお、ここでいうところの9月9日は旧暦によるものです。旧暦9月9日は新暦では10月の初めにあたり、菊の花が咲き香る季節です。古来、菊の花には不老長寿の霊力があるとされてきました。健康長寿を願う重陽節句で菊の花が使われるのもこの理由からです。

 

しかし、明治になって新暦が使われるようになってからは、新暦上の9月9日と菊の花の咲く時期とにずれが生じ、その結果として現在では重陽節句はほとんど行われないようになりました。本来、五節句のなかでもっとも重要な日とされてきた重陽節句がほとんど顧みられることがなくなった理由はこの点にあるといわれています。

 

重陽節句の行事

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重陽節句では菊の花が使われます。古来、菊の花には邪気を祓う霊力があるとされてきました。また、菊の花にはビタミンCやビタミンEといった栄養成分の他にグルタチオンと呼ばれる解毒作用をもった物質が含まれるといわれています。ひと言でいえば、健康によく運気を上げる植物なのです。健康長寿を願う重陽節句で使われてきたことに先人の知恵を感じます。

 

菊酒

菊を使った代表的なものが菊酒です。酒を注いだ杯に菊の花を浮かべたものが有名ですが、酒に菊の花を一晩漬け込んでおくと菊の香りが酒に移り、より味わい深いものとなります。

 

菊枕

菊の花を乾燥させ、枕のなかに詰めたものを菊枕と呼びます。重陽節句に菊枕を使って眠ることで邪気を祓うことを願ったのです。

 

栗ご飯

重陽節句は秋の収穫期にあたっており、行事食として栗ご飯も供されてきました。栗は栄養価が高いだけではなく、庶民にも手の届く食べ物でした。重陽節句自体はもともと貴族社会で行われていたのですが、時代とともに庶民も祝うようになりました。そのときに供されたのが栗ご飯だったといわれています。

 

七夕の節句 意味と由来を解説します

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笹の葉に様々な願いを書いた短冊を飾る七夕祭りは、毎年7月7日に行われる年中行事として私たちの生活に根付いています。七夕祭りの由来についても織姫と彦星の伝説が有名です。

 

しかし、七夕祭りは七夕の節句といって五節句の1つでもあります。五節句は穢れを祓うために神に供物を捧げる儀式をさすので、七夕祭りも、もとをたどれば星に願いをかけるだけの行事ではなかったのです。

 

ここでは、そんな七夕の節句について意味と由来を解説します。

 

七夕の節句の意味と由来

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七夕の節句とは五節句の1つで、もともとは身に付いた穢れを祓うために神に供物を捧げる儀式を行う日のことでした。棚機女(たなばたつめ)と呼ばれる巫女が7月6日から7日にかけて機屋にこもり、織物を織って、それを神に捧げたとされています。このことが地域の災厄を祓い、幸福を招くとされてきたのです。これが七夕の節句のもとの形といってよいかもしれません。

 

これに中国から伝わった織姫と彦星の伝説と乞巧奠(きこうでん)と呼ばれる機織りや裁縫が上手になるように願う儀式とが結びついて現在の七夕の節句となったといわれているのです。

 

織姫と彦星の伝説は、天帝の怒りにふれて年に一度の7月7日の日にだけ逢瀬を許された夫婦の物語として有名です。雨が降ると2人が会えないとされているので、この日は晴れるように祈った経験のある方はいるかもしれません。ちなみに、雨が降ると織姫と彦星は会うことができない、というのは一律に決まっていることではありません。雨の降る、降らないに関係なく2人は会えるとしているところもあるからです。

 

また、願い事を短冊に書いて笹の葉に飾ることで願いがかなうようにと祈るのは、乞巧奠(きこうでん)の行事からきたものです。現在の七夕行事はこの2つから成り立っているといえるでしょう。

 

これに対して、棚機女(たなばたつめ)の伝承は現在の七夕行事には直接関係がないようです。神に供物を捧げて穢れを祓うといった行事の側面が薄らいでいることがその原因といえるかもしれません

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しかし、七夕の節句が終わった後に、願いを書いた短冊が飾られた笹をそのままゴミとして処分するのは気が引けるという方はいることでしょう。七夕飾りに使った笹に、何かしらの禁忌を感じることはあると思います。そのため、短冊を飾った笹を燃やすお焚き上げを行っている神社がいくつかあります。

 

七夕祭りの節句としての本来の意義は、このようなところに残っているといえるのかもしれません。

 

端午の節句とは何?意味と由来を解説します

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男の子の健やかな成長を願う端午の節句。毎年5月5日には五月人形を飾り、鯉のぼりをたてて、家族でお祝いをする方も多いことでしょう。

 

けれども、端午の節句の意味はご存知でしょうか。実は、端午の節句はもともと身に付いた穢れを祓うところから始まったとされています。それが、時代とともに男の子の成長を願う行事へと変化していきました。現在では端午の節句は「こどもの日」と定められ、男女を問わずその成長と幸せを願う日となっているのです。

 

ここではそのような端午の節句について、意味と由来を解説します。

 

端午の節句の意味

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端午の節句とは、もともとは身に付いた穢れを祓うために神に供物を捧げる日のことをいいました。端午とは5月に入って最初の5の付く日のことで、5月5日のことをいいます。

 

古代の人々の考え方の中心をなしていた陰陽五行説では、奇数が重なる日を運気が悪くなる日としていました。そのため、それにあたる日には神に供物を捧げて祀ることで穢れを祓うことが行われたのです。

 

端午の節句もその考え方に準じて行われた行事となります。この行事は古代中国から渡来したもので、日本では奈良時代には行われていたといわれています。特に男の子の成長を祝って行われた行事ではなかったのです。

 

ちなみに「節句」の字ももとは「節供」と書き、神への捧げものを意味するものでした。

 

端午の節句の由来と歴史

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端午の節句が男の子の成長を祝う行事へと変わってきたのは鎌倉時代以降とされています。端午の節句では穢れを祓うために菖蒲が使われました。菖蒲の香りが穢れを祓うと考えられていたためです。その「菖蒲」の読み方が「尚武」にかけられて用いられるようになったのが、武家が力をもつようになった鎌倉時代以降とされているのです。

 

5月5日が男の子の成長を祝う端午の節句として社会に定着したのは江戸時代です。徳川幕府が5月5日を重要な行事を行う式日と定めたことで、最初は武家の間に、やがて町人社会へと広まっていきました。五月人形や鯉のぼりが庶民の間に広まったのも江戸時代からとされています。

太平洋戦争終了後の1948年、5月5日は「こどもの日」となり、それまでの男の子中心の行事から女の子も交えた行事へと変わってきました。現在では男の子、女の子を問わず、子どもの健やかな成長と幸せを願う日となっています。

 

まとめ

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端午の節句は穢れを祓い、幸福を願う行事として始まりました。それが男の子のための行事となり、やがて男女に関わりなくすべての子どもの成長を祝う行事となっています。当初、年齢とは関係なかったものが時代の変遷とともに子どものための行事となっていく。この変容はとても興味深いものですが、根底には、いつの時代にも次代を担う子どもたちを大切に育てていこうとする気持ちがあったのだと思います。

 

上巳の節句とは?由来とひな祭りとの関係を解説!

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上巳の節句とひな祭りとがすぐに結び付くという方は多くはないかもしれません。しかしながら、桃の節句とひな祭りならば、同じ行事だとすぐにわかる方は多いことでしょう。

実は上巳の節句も桃の節句同様、ひな祭りと同じ行事なのです。ただし、もともとは上巳の節句のほうが古くから行われてきた行事であり、ひな祭りのほうが歴史は新しいのですね。

ここでは、上巳の節句とひな祭りの関係について解説します。

 

上巳の節句の意味と由来

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上巳の節句のもとの形は古代中国で3月最初の巳の日に行われていた行事です。古代中国では、この日には水辺で体を清め、宴を催すことで邪気を祓うことが行われていました。この行事が日本に伝わり、日本古来の人形流し(ひとかたながし)といった風習と結びついたのが上巳の節句と呼ばれています。

人形流し(ひとかたながし)とは、心身に付いた穢れや知らずに犯してしまった罪を、人の形に切り抜かれた紙に移して川に流すことで祓う行事のことです。この人形流しが流し雛の始まりといわれており、ひな祭りの原型ともされています。

日本で上巳の節句とされる行事が定着したのは、奈良時代から平安時代といわれています。先述したように3月最初の巳の日に行うとされていた行事でしたが、日本に入ってきたときにはすでに3月3日が上巳の節句と決められていたようです。そこで日本でも3月3日を上巳の節句としました。

上巳の節句では邪気を祓うための宴会だけではなく、曲水の宴と呼ばれる催しも行われました。曲水の宴とは、曲がりくねった川のある庭園で、上流から酒を汲んだ杯を流し、それが流れるまでに川辺に座った者が歌を詠むという行事のことです。詠み終った者は流れてきた杯を摂って酒を飲み、次にまわすとされています。

現在も曲水の宴は各地の神社や寺で行われています。しかし、地域によって開催日時は異なっており、必ずしも3月3日に行われるものではありません。

 

桃の節句との関係

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上巳の節句は桃の節句とも呼ばれています。桃には邪気を祓う力があるとされており、このことが上巳の節句と結びついた理由といわれています。

しかし、現在使われている新暦の3月3日では桃の花はまだ開花時期ではありません。これは上巳の節句が定められたのが旧暦の3月3日であるためです。旧暦の3月3日は新暦では4月初めとなります。桃の開花期は3月下旬から4月上旬といわれていますから、旧暦でいうなら桃の節句という言葉は時期に合ったものといえるでしょう。

 

ひな祭りとの関係

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上巳の節句とひな祭りとは同じものです。上巳の節句に行われた人形流し(ひとかたながし)が流し雛となり、それが平安時代のひいな遊びと結びついたものがひな祭りといわれているのです。

平安時代、貴族の幼女の玩具として紙で作られた小さな人形があり、それをひいなと呼びました。源氏物語には源氏がのちに紫の上と呼ばれる少女と「雛遊び」(ひいなあそび)をする場面が登場します。この人形と流し雛とが結びついてひな祭りが始まったとされています。雛人形には人形の持ち主である女の子の遊び相手であるとともにその子の身代わりとなって厄を移しとる役割をももたされた、と考えてよいでしょう。

また、上巳の節句が女の子の成長を願うひな祭りとして庶民のなかで祝われるようになったのは江戸時代になってからです。もともと上巳の節句は、男の子女の子の区別なく穢れを祓う意味で行われてきました。しかし、5月5日の端午の節句が男の子の成長を祝う儀式とされていくのに伴い、それに対応する形で3月3日の上巳の節句を女の子の成長を祝う行事とするようになってきたといわれています。

江戸時代になって町人が経済力をつけてくるにしたがって、それまで公家や武家が行っていたひな祭りが庶民階級にも広まっていきました。同時にひな人形にも様々な形のものが登場。男雛、女雛のみのシンプルなものから三人官女、五人囃子などといった人形のついた七段飾りなども現れるようになります。現在でも、様々な大きさや形の雛人形が作られ、女の子の幸せを祈って飾られているのです。

 

まとめ

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元来、上巳の節句とは3月初めに水辺で水浴びをし、宴を催すことで穢れを祓う行事のことをいいました。それがところを変え、時代を越えていくなかで変化していき、ひな祭りとなったのです。

しかし、形は変わっても穢れを祓うことで健やかな毎日を過ごしていきたいという人間の思いは変わりません。上巳の節句は女の子を中心にした幸を呼び込む行事として続いてきた行事といってよいでしょう。

 

 

 

人日の節句とは何か?七草粥との関係はあるのか?

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人日の節句と聞いて、その意味がすぐにわかるという方は少ないのではないでしょうか。なかには、桃の節句端午の節句というのは知っているけれど、人日の節句などは聞いたことがないという方もおいでかもしれません。

実は人日の節句とは七草粥を食べる日とされています。それでは1月7日の七草粥の日が人日の節句とどのように結び付くのでしょうか。

ここでは、人日の節句七草粥との関係について解説します。

 

人日の節句とは何か

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人日の節句とは人を大切にする日であり、7種類の野菜の吸い物を食べて邪気を祓う日のことです。古代中国で発祥したとされています。古代中国では、正月初めの7日間を1日から順に、鶏の日、狗の日としており、その日に該当する動物を大切にするという風習がありました。

そのなかで、人の日が1月7日であるところから、この日は人を大切にする日となりました。1月7日は罪人であっても処刑されることはないとされてきたのです。

また、人の日に7種類の野菜の吸い物を食べて邪気を祓うというのも古代中国で行われてきた風習です。この行事を七種菜羹(しちしゅさいこう)と呼びます。

もともと、節句とは陰陽五行説からきた考え方です。陰陽五行説では1月7日や3月3日といった奇数が並ぶ日は運気が悪くなるとされてきました。そのため、この日に神に供物を捧げて邪気を祓う行事が行われてきました。この行事を節句と呼び、人日の節句はそのうちの1つなのです。

日本では、江戸時代に幕府によって人日の節句は1月7日と定められました。

 

七草粥との関係

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日本で、人日の節句七草粥を食べる風習は、日本古来の若菜摘みという風習と前述の七種菜羹(しちしゅさいこう)とが融合してできたものです。

若菜摘みとは、正月になって初めての子の日に行われた野遊びのことで、平安時代の貴族が行っていました。単なる遊びではなく、邪気を祓う意味があったとされています。

この若菜摘みに同じく邪気を祓う七種菜羹(しちしゅさいこう)の考え方が取り入れられて七草粥が始まったとされているのです。

七草粥が現在の形になったのは江戸時代です。七草の種類が決まったのは室町時代頃とされていますが、江戸幕府が1月7日を人日の節句と定めたことにより、この日に七草粥を食べるようになっていったとされているのです。

 

まとめ

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人日の節句七草粥を食べて邪気を祓い福を呼び込む行事です。ただし、現在では七草粥を食べる日といったほうがよいかもしれません。また、七草粥を食べる意味も暮れから正月にかけて酷使した胃腸を休めるためといった意味合いが強く、邪気を祓うための行事としては認識されていないように感じられます。

本来の意味が忘れられている人日の節句ですが、新しい年の幸せを願った祖先の気持ちは受け継いでいきたいものです。