季節の言葉

四季折々の言葉や行事を綴っていきます

上巳の節句とは?由来とひな祭りとの関係を解説!

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上巳の節句とひな祭りとがすぐに結び付くという方は多くはないかもしれません。しかしながら、桃の節句とひな祭りならば、同じ行事だとすぐにわかる方は多いことでしょう。

実は上巳の節句も桃の節句同様、ひな祭りと同じ行事なのです。ただし、もともとは上巳の節句のほうが古くから行われてきた行事であり、ひな祭りのほうが歴史は新しいのですね。

ここでは、上巳の節句とひな祭りの関係について解説します。

 

上巳の節句の意味と由来

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上巳の節句のもとの形は古代中国で3月最初の巳の日に行われていた行事です。古代中国では、この日には水辺で体を清め、宴を催すことで邪気を祓うことが行われていました。この行事が日本に伝わり、日本古来の人形流し(ひとかたながし)といった風習と結びついたのが上巳の節句と呼ばれています。

人形流し(ひとかたながし)とは、心身に付いた穢れや知らずに犯してしまった罪を、人の形に切り抜かれた紙に移して川に流すことで祓う行事のことです。この人形流しが流し雛の始まりといわれており、ひな祭りの原型ともされています。

日本で上巳の節句とされる行事が定着したのは、奈良時代から平安時代といわれています。先述したように3月最初の巳の日に行うとされていた行事でしたが、日本に入ってきたときにはすでに3月3日が上巳の節句と決められていたようです。そこで日本でも3月3日を上巳の節句としました。

上巳の節句では邪気を祓うための宴会だけではなく、曲水の宴と呼ばれる催しも行われました。曲水の宴とは、曲がりくねった川のある庭園で、上流から酒を汲んだ杯を流し、それが流れるまでに川辺に座った者が歌を詠むという行事のことです。詠み終った者は流れてきた杯を摂って酒を飲み、次にまわすとされています。

現在も曲水の宴は各地の神社や寺で行われています。しかし、地域によって開催日時は異なっており、必ずしも3月3日に行われるものではありません。

 

桃の節句との関係

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上巳の節句は桃の節句とも呼ばれています。桃には邪気を祓う力があるとされており、このことが上巳の節句と結びついた理由といわれています。

しかし、現在使われている新暦の3月3日では桃の花はまだ開花時期ではありません。これは上巳の節句が定められたのが旧暦の3月3日であるためです。旧暦の3月3日は新暦では4月初めとなります。桃の開花期は3月下旬から4月上旬といわれていますから、旧暦でいうなら桃の節句という言葉は時期に合ったものといえるでしょう。

 

ひな祭りとの関係

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上巳の節句とひな祭りとは同じものです。上巳の節句に行われた人形流し(ひとかたながし)が流し雛となり、それが平安時代のひいな遊びと結びついたものがひな祭りといわれているのです。

平安時代、貴族の幼女の玩具として紙で作られた小さな人形があり、それをひいなと呼びました。源氏物語には源氏がのちに紫の上と呼ばれる少女と「雛遊び」(ひいなあそび)をする場面が登場します。この人形と流し雛とが結びついてひな祭りが始まったとされています。雛人形には人形の持ち主である女の子の遊び相手であるとともにその子の身代わりとなって厄を移しとる役割をももたされた、と考えてよいでしょう。

また、上巳の節句が女の子の成長を願うひな祭りとして庶民のなかで祝われるようになったのは江戸時代になってからです。もともと上巳の節句は、男の子女の子の区別なく穢れを祓う意味で行われてきました。しかし、5月5日の端午の節句が男の子の成長を祝う儀式とされていくのに伴い、それに対応する形で3月3日の上巳の節句を女の子の成長を祝う行事とするようになってきたといわれています。

江戸時代になって町人が経済力をつけてくるにしたがって、それまで公家や武家が行っていたひな祭りが庶民階級にも広まっていきました。同時にひな人形にも様々な形のものが登場。男雛、女雛のみのシンプルなものから三人官女、五人囃子などといった人形のついた七段飾りなども現れるようになります。現在でも、様々な大きさや形の雛人形が作られ、女の子の幸せを祈って飾られているのです。

 

まとめ

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元来、上巳の節句とは3月初めに水辺で水浴びをし、宴を催すことで穢れを祓う行事のことをいいました。それがところを変え、時代を越えていくなかで変化していき、ひな祭りとなったのです。

しかし、形は変わっても穢れを祓うことで健やかな毎日を過ごしていきたいという人間の思いは変わりません。上巳の節句は女の子を中心にした幸を呼び込む行事として続いてきた行事といってよいでしょう。

 

 

 

人日の節句とは何か?七草粥との関係はあるのか?

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人日の節句と聞いて、その意味がすぐにわかるという方は少ないのではないでしょうか。なかには、桃の節句端午の節句というのは知っているけれど、人日の節句などは聞いたことがないという方もおいでかもしれません。

実は人日の節句とは七草粥を食べる日とされています。それでは1月7日の七草粥の日が人日の節句とどのように結び付くのでしょうか。

ここでは、人日の節句七草粥との関係について解説します。

 

人日の節句とは何か

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人日の節句とは人を大切にする日であり、7種類の野菜の吸い物を食べて邪気を祓う日のことです。古代中国で発祥したとされています。古代中国では、正月初めの7日間を1日から順に、鶏の日、狗の日としており、その日に該当する動物を大切にするという風習がありました。

そのなかで、人の日が1月7日であるところから、この日は人を大切にする日となりました。1月7日は罪人であっても処刑されることはないとされてきたのです。

また、人の日に7種類の野菜の吸い物を食べて邪気を祓うというのも古代中国で行われてきた風習です。この行事を七種菜羹(しちしゅさいこう)と呼びます。

もともと、節句とは陰陽五行説からきた考え方です。陰陽五行説では1月7日や3月3日といった奇数が並ぶ日は運気が悪くなるとされてきました。そのため、この日に神に供物を捧げて邪気を祓う行事が行われてきました。この行事を節句と呼び、人日の節句はそのうちの1つなのです。

日本では、江戸時代に幕府によって人日の節句は1月7日と定められました。

 

七草粥との関係

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日本で、人日の節句七草粥を食べる風習は、日本古来の若菜摘みという風習と前述の七種菜羹(しちしゅさいこう)とが融合してできたものです。

若菜摘みとは、正月になって初めての子の日に行われた野遊びのことで、平安時代の貴族が行っていました。単なる遊びではなく、邪気を祓う意味があったとされています。

この若菜摘みに同じく邪気を祓う七種菜羹(しちしゅさいこう)の考え方が取り入れられて七草粥が始まったとされているのです。

七草粥が現在の形になったのは江戸時代です。七草の種類が決まったのは室町時代頃とされていますが、江戸幕府が1月7日を人日の節句と定めたことにより、この日に七草粥を食べるようになっていったとされているのです。

 

まとめ

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人日の節句七草粥を食べて邪気を祓い福を呼び込む行事です。ただし、現在では七草粥を食べる日といったほうがよいかもしれません。また、七草粥を食べる意味も暮れから正月にかけて酷使した胃腸を休めるためといった意味合いが強く、邪気を祓うための行事としては認識されていないように感じられます。

本来の意味が忘れられている人日の節句ですが、新しい年の幸せを願った祖先の気持ちは受け継いでいきたいものです。

 

鏡餅の鏡にはどんな意味がある?

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正月の縁起物として飾られる鏡餅。年末になるとデパートやスーパーでは特設コーナーが設けられ、正月飾りの定番として売られています。

 

しかし、なぜ鏡餅と呼ばれるのでしょうか。正月用のお供えであれば単に餅だけでもよいと思うのですが、そこに鏡という言葉がつく意味は何でしょうか。

 

実は、鏡は神の依代とされており、そこに米を神聖なものとする稲作信仰とが合わさったものが鏡餅といわれています。

 

ここでは、鏡餅の鏡の意味と餅との関係について解説していきます。

 

鏡とは何か

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鏡は古くから神様が宿る依代として、また祭祀を行う際に使われる神聖な道具として考えられてきました。

 

古事記日本書紀には天照大神が鏡を自分と同じものと考えるように命じたことが書かれています。これは鏡が神の依代とされたことを示しています。ちなみに天照大神が自身の分身として示した鏡は八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれ、三種の神器の1つです。

 

また、古代中国から渡ってきた鏡は日の光のもとで輝きを放ち、そのようなものを見たことがなかった日本人は鏡に対して特別な感情をもつようになったといわれています。もともと日本では天照大神を太陽神として祀っていました。その信仰と日の光を浴びて輝く鏡とが結びつき、鏡を天照大神の分身として考えるようになったとされているのです。

 

さらに、古墳からは多くの鏡が発見されており、このことは鏡が祭祀の道具としても使われていたことを示しています。

 

日本人にとって鏡とは神の依代であり、祭祀にあたって使われる神聖な道具だったのです。

 

鏡と餅の関係

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餅は神の依代とされた鏡にみたてられました。餅もまた鏡と同じく神の依代とされたからです。

 

餅の原料となる米は日本人の主食であり、農業技術が発達していなかった古代社会では、その栽培は自然の力に多くを依存していました。そのため、季節ごとに豊作を神に祈る行事が人々の生活の中心をなしていたのです。現在でも、豊作を祈願する行事は田の神祭りとして知られ、全国で行われています。

 

このようにして栽培された米から作られる餅には神が宿るとされました。すなわち依代と考えられたのです。また、年の初めにその餅を食べることで神の力をもらうことができるとも考えられました。

 

この餅を同じ丸形をした鏡にみたてたのが鏡餅です。餅を神聖な道具である鏡と同じものと考えることで福をもたらす神を招き入れ、その力をいただこうとしたのですね。

 

正月に鏡餅を飾ることで歳神の依代とし、鏡開きによってその餅を食べることで神様の力を身内に取り込む。このような意味が鏡餅にはあるのです。

 

まとめ

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鏡とは神の依代であり、祭祀に使われる神聖な道具でした。一方、餅も神の依代であるとともに神の力が宿るものとされました。鏡餅はこれら2つが結びつき、正月に飾る縁起物として現在まで受け継がれているのです。

 

年越しの大祓とは何?夏越しの祓との関係は?

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年越しの大祓は毎年12月31日に全国の神社で行われる行事です。身についた罪や穢れを払い、新年を新たな気持ちで迎えるために行なわれるものとされています。

これと似た行事に夏越しの祓があります。こちらは毎年6月30日に行われる行事で茅の輪くぐりが有名です。これら2つの行事にはどのような関係があるのでしょうか。

ここでは、年越しの大祓の意味と夏越しの祓との関係について解説していきます。

 

年越しの大祓の意味

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年越しの大祓とは、12月31日の大晦日に神社で行われる罪や穢れを払う行事のことをいいます。ここでいう罪とは、日常生活の中で気づかないうちに犯してしまっているちょっとした嘘や他人を傷つけてしまう言動などをさします。

また、穢れとは、神道の考え方に基づくものです。神道によれば、人間は本来、純粋無垢な状態で生まれてくるのですが、生きていく間に遭遇する様々な事象、たとえば、死や病気、けが、さらには出産、女性、排泄、性交などによってその純粋さが隠されてしまうとされます。

現代の感覚からすれば、違和感がありますが、神道では、これらの事象を穢れと呼んで忌むべきものとしていました。

そこで定期的に儀式を行うことで罪や穢れを払い、生まれたときの純粋さを再びよみがえらせることが必要とされてきたのです。

この行事が大祓であり、12月31日の大晦日に行われるものが年越しの大祓と呼ばれています。

 

夏越しの祓との関係

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夏越しの祓は年越しの大祓と同じく、身についた罪や穢れを払うために行なわれる行事です。すなわち、2つの行事は同じ意味をもっており、行われる時期が違うだけのものなのです。

ただし、行事としてみたときには、有名な茅の輪くぐりが行われるのは夏越しの祓であり、年越しの大祓では行われません。(神社によっては両方の行事で行われるところもあります)

また、夏越しの祓の行事食として、夏越しごはんや水無月という和菓子が有名ですが、年越しの大祓には、特に行事食というものはありません。

両方の行事に共通しているのは、紙で作った人型にその人の罪や穢れを移しかえて川へ流すというもの。人型には自分の名前を書き、体をなでて息を3回吹きかけるとされています。こうすることで、その人型に罪や穢れが移しかえられるとされているのです。

現在では人型ならぬ車型も登場しています。安全が求められる乗り物だからこそ、穢れを払うことが必要ということなのでしょうか。

 

まとめ

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夏越しの祓が行われるのは、毎年6月30日。これに対して年越しの大祓は前述のとおり、12月31日に行われます。定期的に穢れを払う儀式を繰り返すことでその人だけではなく、社会全体を良くしていこうという思いがそこにはあるのでしょう。

 

節句の意味とは?時期はいつ?

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節句はよく聞く言葉ですが、具体的な意味や内容についてご存知の方は多くないのではないでしょうか。また、端午の節句は知られていますが、その他の節句となると、いつ行われるものなのか、といった疑問をおもちの方もいらっしゃると思います。

実は、節句とは穢れを払うために、神に供物を捧げる日のことをいいました。神の力によって自分や家族の無事安穏を願う日だったのです。端午の節句も、もともとの意味は邪気を払う儀式を行う日でした。その際に使われたのが菖蒲だったのです。

ここではそんな節句について解説していきます。

節句の意味

節句とは神を祀り、穢れを払う日のことをいいます。ここでいう穢れとは陰陽五行説からきたものです。陰陽五行説では人間を取りまく森羅万象すべてを陰と陽とにわけて、それらが互いに影響しあっていると考えています。

数字についてもこの考え方をあてはめ、奇数を陽、偶数を陰として、陽に配置した奇数をめでたい数字としました。しかし、めでたい奇数が重なると反って悪い結果になるとも考えました。陽の気が強くなりすぎて、陰陽のバランスが崩れてしまうとされたのです。

この考え方は暦のうえでの奇数、偶数に取り入れられました。すなわち、3月3日、5月5日といった奇数が並ぶ日は運気が悪くなるとされたのです。冒頭の穢れとはこのことをいいます。そこで、この日に神に供物を捧げて祀ることで穢れを払う行事が行われるようになりました。これが節句の意味であり由来となります。

なお、節句のことを節供とも書きますが、これは神へ供物を捧げることを意味しており、もともとはこちらの文字が使われていました。しかし、後述するように江戸幕府節句を年に5回の式日と定めたところから節句と呼ばれるようになったのです。

 

節句はいつ行われる

節句は次の日に行われます。1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日です。5回行われるところから、五節句と呼ばれています。いずれも奇数がならぶため、運気が悪くなるとされた日であり、この日に神に供物を捧げることで穢れを祓ったのです。

もともと節句は1年のうちに何度も行われていました。しかし、江戸時代になって幕府が節句を行う日を年に5回とし、その日を式日と定めました。その日を五節句と呼ぶのです。なお、式日とは特定の儀式を行う日のことをいいます。

明治時代になると、式日は廃止されましたが、儀式としての形は残り、現在に至っています。

節句が行われるのは次の5日です。

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1月7日 人日(じんじつ)の節句

人日とは、人を大切にする日のことですが、現在は七草粥を食べる日として知られています。

古代中国では1月1日から6日までのそれぞれの日に動物をあてはめていました。たとえば、1日は鶏の日、2日は狗の日といった具合です。その日にあてはめられた動物は大切にされ、殺さないようにしたのです。7日は人の日であり、この日は罪人であっても処刑されないとされていました。また、1月7日の人の日には7種類の野菜の入った吸い物を食べて邪気を払ったのです。

この風習が日本に伝わり、その際に日本にもとからあった若菜摘みの風習と合わさって、人日に七草粥が食べられるようになりました。

七草粥は年末年始に酷使した胃腸を休めるためのものですから、人を大切にする人日にはふさわしい料理といえるでしょう。

3月3日 上巳(じょうし)の節句

上巳の節句とは雛祭りのことです。上巳とは3月初めの巳の日のことをいいます。古代中国では、この日に穢れを払う儀式が行われていました。日本でもこの風習が取り入れられ、春の初めに水辺で穢れを払う行事が行われるようになり、それが時代とともに紙で作った人型に穢れを移し、川に流すようになっていきました。

雛祭りの雛はその人型が変わったものです。現在では様々なお雛様が飾られるようになり、上巳の節句というよりも雛祭りといったほうが一般的になっています。

 

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5月5日 端午の節句

端午の節句とは現在では子どもの日とされています。主に男の子の成長を願って五月人形を飾ったり、鯉のぼりを揚げたりする日として知られています。

しかし、もとは穢れを払う日でした。端午とは5月最初の午の日を指します。この日が5月5日であり、奇数が並ぶ日であるところから、それによって生じる穢れを払う日とされたのです。その際には穢れを払うものとして菖蒲が使われました。

鎌倉時代になって武士が中心の世の中になると、菖蒲の音が尚武に通じるところから男の子の成長を願う日に変わっていき、現在の姿となっていったのです。

 

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7月7日 七夕(しちせき)の節句

七夕の節句とはいわゆる七夕祭りの日です。青竹に願い事を書いた五色の短冊を結んで飾る行事として全国で行われています。

七夕の節句は有名な牽牛と織女との伝説、さらに棚機津女(たなばたつめ)の伝説とが混じり合ったものといわれています。

棚機津女とは神に捧げる神衣を織る女性のことです。棚機津女が神衣を織ったあとに禊を行うと神がその地域に福徳をもたらすとされてきました。

穢れを払い、福を呼び込む儀式と年に1度の逢瀬とが一体になった行事が七夕の節句ということができるでしょう。

9月9日 重陽節句

重陽節句は現在ではあまりなじみのない行事です。しかし、もとは不老長寿を願う日として節句になかでも特に重要とされてきました。

9月9日は新暦では10月中旬頃で、菊の花が盛りの頃になります。菊は健康に良いとも、また寿命を延ばすともいわれ、重陽節句では菊を用いた行事が様々行われました。菊枕、菊湯などがその代表的な行事です。

また、重陽節句には3月の雛祭りが再び行われました。これは後の雛と呼ばれ、長寿を願う行事として江戸時代に流行したとされています。

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まとめ

節句は5つあり、五節句と呼ばれています。いずれも穢れを払うことが目的の行事として始まった行事です。しかし、時代とともにその意義が薄れ、現在では家族や親しい仲間内でお祝いをする行事という側面が強くなっています。なかには重陽節句のように名前だけが残っているものもあります。

時代とともに行事の形は変わっていきますが、そこに込められた思いは残していきたいものです。

 

正月事始めって何?意味と由来を解説します

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正月事始めという言葉を聞いたことはありますか。日常的に使われる言葉ではないので、ご存知の方は多くないのではないでしょうか。

 

実は正月事始めとは、正月を迎える前に行う行事を始める日のことをいいます。煤払いやお歳暮、年男などは正月前に行う行事ですが、これらの行事を始める日が正月事始めなのです。

 

ここでは、そのような正月事始めの意味と由来、さらには行事の内容について解説していきます。

 

正月事始めの意味

正月事始めには、正月を迎えるにあたって、しておかなければならないことを始める日という意味があります。正月は福をもたらす歳神がやってくる大切なときとされていました。そこで、無事に歳神を迎えるために様々な用意をする必要があり、それを始める日を正月事始めと呼んでいるのです。

 

正月事始めの日は決まっていて、毎年12月13日とされています。

 

正月事始めの由来

正月事始めは江戸時代になってから始まったとされます。

 

もともとは、事始め(ことはじめ)という行事が行われていました。「事」(こと)とは歳神を祭る行事のことで、毎年12月8日に行われ、この日から正月の歳神を迎える準備が始められてきたのです。

 

それが江戸時代になると、それまで使われてきた暦のなかで、もっとも運気の良い日とされた鬼の日が12月13日にあたるところから、この日が正月準備を始める日と定められました。それが正月事始めの由来です。

 

ちなみに鬼の日とは、江戸時代半ばまで使われてきた宣命暦という暦に載っている結婚式以外、すべてのものごとが吉とされた日のことです。

 

正月事始めの行事

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正月事始めの行事には次のものがあります。

 

煤払い

煤払いとは、正月を迎えるにあたって家中にたまった煤を煤ぼんでんと呼ばれる竹の先にわらを付けた道具を使って払い落してきれいにする行事のことをいいます。現在でいう大掃除です。

 

当初、江戸城内で毎年12月13日に行われていた行事でした。それがやがて江戸市中に広まったとされています。正月事始めという言葉はここから始まったともいわれているのです。

 

昔は家の照明や暖房、食事の用意のためにろうそくや炭といったものを使っていたため、煤が家中にたまりました。それを年の終わりにきれいにして、新年を迎えたのです。また、家をきれいにすることで歳神がより多くの福を運んでくるともいわれ、煤払いは大切な行事とされていました。

 

現代では、家に煤がたまることは基本的にありません。しかし、新年を気持ちよく迎えるために年末の大掃除という形で残っています。

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お歳暮

お歳暮は、1年間お世話になった方々に対するお礼であり、そのときに持参する贈り物のことをいいます。

 

もともとは歳神を迎えるための贈り物という意味がありましたが、それが目上の方やお世話になった方への贈り物というように変わっていきました。

 

このお歳暮を贈る時期が12月13日の正月事始めの日から、とされているのです。ただし、これはあくまでも基本的な考え方であって、厳密に決められたものではありません。実際に百貨店などでは11月にはお歳暮の受付を始めており、必ずしも正月事始めにあわせていないのが現状です。

 

しかしながら、お歳暮が相手に届く時期となると12月20日頃までというのが1つの目安となっています。12月31日までに届けば失礼にはあたらないともされています。

 

年男

年男とは、12年に一度めぐってくる干支が、自分の生まれた年の干支にあたる人のことをいいます。たとえば、子年生まれの人が子年になると年男と呼ばれることをいいます。

 

しかし、これとは別に正月事始めから始まる新年を迎える行事一切を取り仕切る人のことを年男と呼んでいます。こちらは干支とは関係ありません。その家の家長である男性を指した言葉です。

 

この意味の年男とは歳神を迎える一切の用意を行うとともに、迎えた歳神を接待する役割をもった人のことをいいます。いわば正月の祭りすべての司祭者ということができるでしょう。

 

歳神への接待とは、供物を調理して供えることも含みます。地方によっては正月三が日の煮炊き一切を年男が行うとされていたところもありました。

 

正月は単に年が新しくなるというだけではなく、福をもたらす歳神をもてなし、1年の無事安穏を願う祭りだったため、家長が年男としてその任にあたったというわけなのです。

 

現代では、この意味で年男という言葉が使われることはあまりありません。また、年男の役割とされてきた新年を迎える行事からは、宗教的な意義が薄らぐとともにその準備は家族全員で分担するように変わってきています。

 

まとめ

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正月事始めとは、正月を迎える準備を始める日のことをいいます。当初、12月8日とされてきた事始めの日は江戸時代になると12月13日に変わりましたが、これには暦の考え方が強く影響していました。

 

また、現代では、正月事始めという言葉自体ほとんど聞かれません。煤払いは大掃除へと形を変え、お歳暮を贈る時期にも厳密な縛りはなくなっています。また、年男という言葉も違った意味で使われるのが一般的となりました。

 

時代が移るにつれて行事や言葉の意味も変化していくのは当たり前のことですが、正月事始めはそのことをよく表しているといえるでしょう。

 

酉の市とは何か?意味と由来を解説します。

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毎年、11月に行われる酉の市は商売繁盛を願う行事として知られています。福をかきこむとされる熊手が買われると威勢の良い掛け声とともに行われる手締めは、酉の市のにぎわいを象徴するものです。

 

けれども、酉の市の由来はごぞんじでしょうか。また、そもそも酉の市の「酉」とは何を意味しているのでしょうか。

 

ここではそんな酉の市の意味と由来を解説します。

 

酉の市の意味

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酉の市とは毎年11月の酉の日に全国の鷲神社で商売繁盛を願って行われる行事のことをいいます。

 

酉の日とは十二支をもとにした日の数え方です。十二支とは「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「酉」「戌」「亥」の12から成ります。陰陽五行説で時間や方位を表す言葉として使われており、日の数え方もそれに基づいています。

 

すなわち「子」の日から始まって12日目となる「亥」の日で1つのサイクルが終わり、次の「子」の日から再び次のサイクルが始まるとされているのです。そこで「酉」の日も12日ごとにめぐってくることとなります。

 

酉の市は11月に12日ごとにめぐってくる「酉」の日に行われる行事のことなのです。よく「一の酉」「二の酉」「三の酉」といわれますが、これは11月にくる酉の日の数をいいます。酉の日の日取りは毎年変わるため、3回目の酉の日、いわゆる「三の酉」は必ずしも毎年あるわけではありません。

 

年によっては酉の日が2回しかないときもあるのです。「三の酉」のある年は火災が多い、などといわれますが、これは酉の日が3回ある年に使われるのです。ちなみに「三の酉」のある年と火災件数との間には何の関係もありません。

 

2022年の酉の市は、三の酉まであります。すなわち、一の酉が11月4日(金)、二の酉が11月16日(水)、三の酉が11月28日です。

 

酉の市の由来

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酉の市の由来は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国を平定したときに鷲神社で戦勝を祝った日が11月の酉の日であったところから始まったものとされています。

 

また、鷲神社が商売繁盛の神様とされるようになったのは、天の岩戸の神話からきています。天の岩戸に隠れた天照大神が再びその姿を現したときに、宴を開いていた神々の1人がもっていた楽器の先に1羽の鷲がとまりました。その様子がめでたいこととされ、楽器をもっていた神様は名前に鷲の字を付けて鷲大明神と呼ばれるようになりました。この神様を祀ったのが鷲神社であり、開運や商売繁盛といったご利益があるとされたのです。

 

当初、11月の酉の日に行われていたのは祭りで「酉の祭」(とりのまち)と呼ばれていました。やがて、この日にものが売られるようになり、市が立ったところから呼び名も「酉の市」と変わっていったのです。

 

酉の市の縁起物

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酉の市の縁起物として有名なのが熊手です。熊手はその姿から福をかきこむとされ、指物と呼ばれる縁起物が飾り付けられています。指物にはお多福の面、鯛、蕪などがあり、それぞれに意味があるとされています。その中の1つ、桝には「ますます」商売が繁盛するといった意味があるそうです。

 

熊手を買う際には、小さなものから始めて年とともに大きなものを買っていくというのがよいといわれています。年々商売も大きくなっていくようにとの願いがそこにはあるとされているからです。

 

ただし、あくまでも縁起物なので、必ずしも大きさにこだわることはないともいわれています。大切なことは自分が気に入るか否かですからね。

 

まとめ

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酉の市とは、十二支に由来する「酉の日」と鷲大明神への信仰とが日本武尊の戦勝祝いによって結びついたところに成立したものといってよいでしょう。

 

なお、酉の市を「お酉さま」と親しみをこめて呼ぶこともあります。酉の市は、年の暮れを迎えるにあたって良き運を招き寄せたいという庶民の思いが込められた行事といってよいかもしれません。